【競馬】日本で極められた世界最古のスポーツ

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競馬は世界で最も古いスポーツのひとつでありながら、最も人気のあるスポーツとして長い間繁栄してきました。その歴史は古く、娯楽として考えられていた頃から、現在のような本格的なスポーツとして知られるようになるまで長い歴史があります。ここでは、競馬の長きにわたる歴史について簡単にご紹介しましょう。競馬の始まりは、中央アジアにまでさかのぼります。

競馬の始まり

紀元前4500年、中央アジアの大草原には遊牧民が暮らしていました。どの部族が始めたのかは不明ですが、当時の多くの家庭では地元の野生動物が家畜されていたと言われています。牛、ヤギ、羊などは資源別に利用され、馬は荷物を運ぶための仲間として飼われていました。峡谷の中を走ることは、娯楽のひとつとして考えられていたようです。

古代ギリシャでの競馬

馬の飼育は、他の地域の商人や戦士を支援する目的で始まります。青銅器時代(紀元前1600~1100年)には、古代ギリシャの高位軍人や政治家の戦車を引くために馬の訓練が行われ、この習慣は後に古代エジプトやスコットランドなどの近隣諸国にも広まりました。

実際、どの時期に始まったのかは明確になっていませんが、古代ギリシャの軍隊は移動のためではなく、戦争での便利性を見越してすぐに馬に乗るようになりました。これは重装歩兵の戦いに大きな影響を与えた騎兵の初期の例です。この当時の競馬初心者はジョッキーではなく、戦争用の訓練兵士でした。

戦車競走は、古代ギリシャで有力者の葬儀用アトラクションとして始まりました。ルールは、1台の戦車を4頭の馬が牽引し、戦車の運転手が勝利の手柄を手に入れるというもの。その後、紀元前664年のオリンピアードで競技として認められるようになります。紀元前680年であったと記述されている資料もあるようです。

戦車競走から乗馬へ

戦車レースが人気を博してからわずか数十年後、馬術競技の定番ともいえる乗馬が誕生します。これによって、一回のレースでより多くの競技者が参加できるようになりました。また、個々の馬や騎手を評価することも可能になります。

現代の競馬と同じように、競走馬はアスリートとしてのパフォーマンスを評価されます。賞金は馬に与えられ、騎手は馬主との合意に基づいて、その才能に応じた報酬を得ていました。これは、日本中央競馬会の構成とよく似ています。

馬は、競走馬としての報酬を元に競り落とされます。子馬であっても、それなりの値段がついていました。これは、拡大を続ける古代ギリシャの軍事力を支える馬を育てるための基準となります。そして、この方法は後にローマ帝国でも採用されました。

古代ヨーロッパにおける競馬スポーツの洗練

競馬がヨーロッパに広まったのは、ローマ帝国の拡大によるものと考えられます。競馬は多くの大都市の娯楽の一つとなり、地中海周辺の征服により、イタリア、ドイツ、イギリスの文化の一部としても定着していきました。

特にイギリスでは競馬がこよなく愛され、このスポーツの成長に最も大きな影響を与えたことでも知られています。イギリスでフラットレースが始まったのは1100年代のこと。1500年代に入っても人気は衰えず、中世には領主の娯楽スポーツとされていました。

古代日本の競馬

地中海沿岸では競馬が盛んですが、日本でも6〜7世紀には独自に競馬が行われていたようです。古代ギリシャのように、4世紀には騎兵隊が軍隊として活躍していました。しかし、この時使用された馬は、中国や韓国から輸入されたものです。日本にも固有の馬種は存在していましたが、騎馬戦には適していませんでした。

古代日本の競馬は、宗教的な儀式として行われていました。競馬は、主君や神を讃える重要な祝日にのみ行われる行事であり、神社の近くや朝廷で行われるのが普通だったようです。戦車は大名や軍人がよく使用するため国内にもありましたが、昔から乗馬が標準と考えられていました。

サラブレッドの育種

ここで、ヨーロッパに話を戻して、世界の競馬の標準品種であるサラブレッドについてお話しましょう。スコットランドのチャールズ2世とイギリスのアン女王は、1700年代に新しい品種の競走馬を繁殖させる計画を後援しました。これは、地元の雌馬と、アラビア種、バーブ種、トルコマン種などの種牡馬を交配するというものです。

その結果生まれたのがサラブレッドで、温血の大型馬がスピードを出すために完璧に飼育されています。耐久レースも人気ですが、最大2800メートルのトラックで行われるフラットレースには及ばないでしょう。これがヨーロッパの競馬の標準種となり、後にイギリスの植民地であるアメリカ、アフリカ、オセアニアなどに輸出されました。日本にも後から伝えられますが、植民地ではなく貿易によるものです。

日本での西洋式競馬の伝来

日本には独自の競馬規格があり、それは欧米の洗練された様式を採用したものでした。現在私たちが知っている競馬のルールは、西洋式の競馬です。競馬が横浜で始まったのは1860年代のことですが、当時の馬はまだ日本固有のものでした。その後、1870年代には東京にも競技場が設置され、徐々に他の都市にも広がっていきます。サラブレッドが登場したのは、少し遅れて1895年頃でした。

伝統と名誉、そして賭け事としての競馬

西洋式の競馬は、すでに商業的な利用を支援する形で洗練されていました。馬主、騎手、主催者、観客がそれぞれ利益を得られるようなルールが設定されていたのです。ただし、競馬は営利目的のみで行われていたわけではありません。

1900年代初頭に日本で行われた競馬は、多くの場合神々に捧げるために行われていました。また、天皇をはじめとする有力者の名誉のために行われる場合もあります。例えば、春と秋に開催される天皇賞は、天皇に捧げることが目的とされています。

政府が競馬賭博を支援するようになったのは、それから間もなくのことです。1906年には「馬券黙許時代」と呼ばれる政策が認められました。これが、今日まで続いている近代的な賭けのシステムの導入となったのです。

宣言から2年後の1908年には、新たに馬券の販売を禁止するという方針が打ち出されました。実業家や議員など多くの市民がこの規則を覆そうとしましたが、成功したのは1923年で、これも競馬業界の改革につながったと言われています。1923年には11個の競馬クラブが設立され、国内の競馬の運営責任を任されるようになりました。

さらに1936年には、競馬法が大幅に改正されます。これにより、11団体の競馬クラブの権限を強奪した日本中央競馬会が設立され、日本の競馬法の新たな責任者となりました。

JRAとNARの設立

競馬の楽しさが続いたのも束の間、1939年に第二次世界大戦が勃発。日本の競馬はすべて停止され、戦後間もない1946年に再開されました。特に京都や東京では、いち早く競馬が再開されます。1947年には、競馬の賭け方法として連勝複式が導入されました。

1948年に再び競馬法が改正された結果、日本中央競馬会は廃止されました。地方自治体の農林省が主導権を握ることとなり、すぐに政府競馬と呼ばれるようになります。設立された法律の多くはそのままでしたが、唯一の大きな違いは収益が国の復興に使用されることでした。

数年後、競馬法は再び改正され、この時1954年9月16日に現在の日本中央競馬会(JRA)が設立されました。JRAは、官営競馬の機能と責任のすべてを担い、公営競馬を開催する権力が与えられます。政府からは独立していますが、現代においても日本最大の納税団体のひとつです。

しかし、政府管理の競馬が完全になくなったわけではありません。1962年8月1日に「地方競馬全国協会」が設立されました。NARもJRAと同じ役割を担っていますが、プレミアトーナメントは開催していません。騎手や仔馬の育成、地方競馬に参加したい人のための登録作業などを行っています。

JRAは、より民営化された経営モデルを採用しており、これにより共同事業との独立した取り決めが可能になっています。JRAは、日本の競馬界をリードするとともに、国際的にも日本を代表する存在です。

地方競馬の発展の歴史

JRAが設立されてから、日本はようやく競馬に真剣に取り組むようになります。しかし、この地方競馬をさらに発展させるためには、もう一歩踏み込んだ国際大会への参加が必要でした。

競馬のルールが確立されてから、日本は世界から孤立している状態でした。戦前も戦後も、国内で開催される大会はすべて地元の選手だけで構成されていました。しかし、1981年に「ジャパンカップ」が開催されたことで変化が起きます。

ジャパンカップは、JRAの設立日から現在に至るまで、最も権威のあるイベントとして知られています。ジャパンカップの開催は、オーストラリア、アメリカ、そしてヨーロッパの選手たちに挑戦できる良い機会でした。しかし残念ながら、開催国である日本の代表選手達はこのイベントで印象を残すことができず終りを迎えます。

JRAが世界最高峰の競走馬生産者に

今やJRAは、競馬界全体で「世界で最も素晴らしいサラブレッドを生産している」と言われています。そのきっかけとなったのは、1981年に開催された第1回ジャパンカップでの苦い敗戦でした。ジャパンカップ後、JRAはアイルランド、アメリカ、イギリスなど各国からチャンピオンを輸入するようになります。

1989年、JRAは米ケンタッキーダービーの覇者「サンデーサイレンス」の輸入に成功。彼はJRAのリーディングサイヤーとなります。サンデーサイレンスの産駒は、地元の馬や他の種牡馬から生まれた馬に比べて、地方競馬で圧倒的な強さを誇りました。やがて彼の産駒は、ジャパンカップや国際的なイベントを席巻するようになります。

サンデーサイレンスの血統は、現在の競走馬にも強く受け継がれています。最も有名な産駒は、JRA殿堂入りを果たし、2度の年度代表馬に輝いた「ディープインパクト」で、2019年に早逝するまで日本のリードサイアーでした。サンデーサイレンスのもう一頭の有名な駒馬は、2004年のスプリングステークスを制したブラックタイドです。どちらもダムであるウインドインハーヘアから産まれました。

日本の競馬の現状

現在、日本ではアラブ首長国連邦やフランスに次いで、世界でも有数の競馬イベントが開催されています。また、日本は競馬界で最も優れた繁殖所、種牡馬、繁殖牝馬を持つ国です。そして、最も高価な子馬を生産する国でもあり、オークションでは1頭あたり数百万ユーロの値がつくこともあります。

また、日本には歴史上最も有名な馬がいます。アーモンドアイ、ディープインパクト、ジェンティルドンナ、シンボリクリスエスなどの名馬です。競馬初心者の方は、歴史を知らなくても競馬を楽しむことができますが、現代の世界に与える影響を考えるととても興味深く感じ、一層おもしろくなりますね。

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